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「修身」という戦前の授業と現代の「道徳」について

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修身の話の前に…資本主義が良心を持ちつつある

ちょっと首が痛くて数日パソコンから離れていましたが、久しぶりにこんな記事を読みました。

ユニクロが、「世界一、親切な会社になる!」と宣言する日が必ずやって来る理由
http://kyouki.hatenablog.com/entry/2013/05/10/071705

僕はこういう記事がとてつもなく好きなのです。「修身」について早速書きたいところですが、もう少し回り道をして、同じくはてなブログのICHIROYAさんのブログです。フォーカスはそこまではユニクロには当たってはいなくて、

チャリティや良い行いをしている企業こそが、顧客からの支持を受ける。
その傾向は、とくに、フェイスブックなどのSNSを利用している新世紀世代に顕著である、という。

ブログ内の言葉をそのまま拝借すると


『資本主義が良心を持ちつつある』


という内容です。仮に企業が単なる宣伝や利益目的でこういった事を行うのは良くないかもしれないし、短期的には消費者に見破られてしまうかもしれないけれど、将来的にはいい意味で「手段が目的化」するかもしれないわけで、僕は、決して悪いことではないと思っています。


真っ向から否定する人がほとんどだと思いますが、僕は、お金は無機質なものではなくて、つまり、自分だけが豊かになるために使うのではなくて、同時にお金を支払う相手・支払う会社の従業員・その会社が関わっている人(チャリティーの支援先など)も幸せになって欲しいと思って流通するものだと考えていて、そういう想いで経済は成り立つという、言ってみれば「ユートピア」みたいなものを真剣に信じている人間なので、


今回のICHIROYAさんの記事では
・カフェでコーヒーを頼む際に、お金がなくてコーヒが飲めない人のためにもう一杯分の代金をプールする形で支払う『サスペンドコーヒー』というムーブメント
・百貨店のノードストロームが利益の全額をチャリティーに回す実験
を取り上げていますが、こういった取り組みは、これからの世の中の動きを語っていく上ではとても重要な例になると思います。

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『成長の限界』の共著者であるヨルゲン・ランダースさんの新著『2052』の中で、「資金は次第に社会が選ぶ方向に流れるようになっていく」という内容が語られています。『2052』の中では「社会が選ぶ」方向というのは、エネルギー、具体的には二酸化炭素の排出量が少ない社会のことを言っているのですが、これはそっくりそのままチャリティーであったり、思いやりということに置き換えることができると思います。もっというと、「社会が選ぶ」方向のというのは、決してお偉いさんが主張するものを言うのではなくで、「普通の人」が生み出すことができるものだと思います。


お金の流れというのは、企業がマーケティングを駆使して消費者の財布をこじ開ける結果生まれるものではなくて、消費者主導で、彼らが望む世の中を生み出すために生まれるべきものだと思います。今回はちょっと書きたい内容が違うのでスルーしますが、これからのマーケティングは、このような(消費者主導という)意味で『ムーブメント・マーケティング』が先頭を走っていってくれるのではないかと期待しています。『ムーブメント・マーケティング』というのは、世の中で広がりつつある関心事をムーブメント(大きな動き)まで高めて、製品の販売につなげる手法のことです。厳密には企業主導と消費者主導の中間あたりになるのでしょうか。


前フリが長くなってしまいましたが、今回書きたいのは『道徳教育』についてです。

道徳教育の今と昔

今の世の中が「思いやり」や「責任」を欠いていて、カネ・カネ・カネの社会になってしまったと嘆く人がいます。そして、その中の多くが戦前生まれの人たちです。
もう少し正確に定義をすると、「戦前に初等教育を受けた人」になります。
これらの人たちが戦後生まれの人を批判する時によく引き合いに出すのが「道徳教育」の重要性です。


今でいう小学校は、戦前は「尋常小学校」と呼ばれていました。尋常というのは読んで字のごとく「常を尋(たず)ねる」。つまり、尋常小学校というのは、人としてあるべき姿、人間形成を目的として作られた学校ということになります。そして、尋常小学校の科目の一つとして設置された教科が「修身」、今でいう道徳にあたるものです。この修身という科目は戦後、GHQによって軍国主義教育の元凶だと言われて廃止されました。その結果生まれたのが社会科になります。


戦前に教育を受けてきた人たちは、『「修身」の授業を受けていない現代の社会人が無責任な世の中を生み出してしまった。』と言うのですが、僕はそうは思いません。実は今の「道徳」は「修身」とあまり変わらない内容を教えているのではないか?と思うからです。

「修身」の授業

昔なつかし尋常小学校というサイトの内容を参考にさせてもらいます。
修身の教科書はこのような感じです。
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そして、一年生の前半の目次はこちら

一 ヨク マナビ ヨク アソベ
二 ジコク ヲ マモレ
三 ナマケル ナ
四 トモダチ ハ タスケアヘ
五 ケンクワ ヲ スルナ
六 ゲンキ ヨク アレ
七 タベモノ ニ キ ヲ ツケ ヨ
八 ギヤウギ ヲ ヨク セ ヨ 
九 シマツ ヲ ヨク セ ヨ
十 モノ ヲ ソマツ ニ アツカフ ナ
十一 オヤ ノ オン
十二 オヤ ヲ タイセツ ニ セ ヨ
十三 オヤ ノ イヒツケ ヲ マモレ

適当な言葉が見つかりませんが、人として・コミュニティーの一員として生きていくために最低限必要なこと、そんなイメージでしょうか。
二年生以降になると、特定の人を取り上げて、その人の生き様に習う内容、教育勅語の暗誦、天皇についての内容が増えていったようです。
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この写真の左のページには「落し物は持ち主に返す」、そのような内容が書かれています。

現代の「道徳」はどうか?

さて、これに比べて現代の道徳の授業の内容はどうかというと、先ほども書いたように、あまり変わってはいないのではと思います。

文部科学省の小学校道徳 読み物資料集をみてみると、

・「たびに でて」
・「ごちそうさまの あとで」
・「おひめさまと少年」

このようなタイトルの文章が並んでいるのですが、本文を読んだ上で勝手に解釈すると

「たびに でて」→しっかりとあいさつをしましょう。
「ごちそうさまの あとで」→食事の後はキチンと後片付けをしましょう。
「おひめさまと少年」→自分のわがままだけを押し付けるのではなくて、相手を思いやりましょう。

「修身」の授業の内容とあまり変わらない感じがしませんか?

そして、道徳の参考書として有名な心のノートですが、こちらは修身の教科書と同様、目次で伝えたい内容が分かるものが多く

・「勇気を出せるわたしになろう」
・「学び合い ささえあい 助け合い」
・「みんなのために流すあせはとても美しい」

「現代の人間は道徳がなっとらん!」と言われる割には充実しているように思えませんか?
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「道徳がなっとらん」のは

昔の「修身」と現代の「道徳」がさほど変わらない内容を教えていると仮定した上で、短絡的かもしれないけれど僕のなかで出てくる結論は相反する2つ。

・一つ目は、「教える内容も変わっていなければ、人の中身もそれほど変わっていないのでは?」ということ

敗戦からの復興を象徴する経営者のような「仁徳あふれる」人なんていうのはもしかしたら昔でも一握りで、そういった人が書籍やメディアで現代の教育に意見を言うことで昔の道徳教育が美化されているのかもしれない。それはつまり、戦後生まれの50~60台前半くらいの現役バリバリの管理職の人たちの中から、あと10年くらいした時に「今時の若者はねぇ~。まずは教育をしっかりしないと始まらないですよ。」という人が大勢出てくる。ということを意味しているのかもしれません。

・二つ目は、「今時の若者は道徳がなっとらん。責任は教師にある」のかも。ということ

教えている内容がさほど変わらないとしたら、生徒の行動に差が出てしまうのは、とりもなおさず教師の資質が関係しているのではないでしょうか。修身は武家出身の人が教えていて、それと同じようなレベルを義務教育の教師に求めることは酷かもしれませんし、このところ進んでいる道徳の教科化の議論の中でも、外部講師を呼ぶことが積極的に打ち出されています。これはつまり、「現場の教師だけではもう太刀打ちできない」と国が認めているようなものではないでしょうか


ただ、徳があるとか・ないとか、何が正解とか、このような議論はあまり個人としては好きではないんです。コミュニティーの一員として生きていく中で、お互いに迷惑をかけずに助け合う。その上で、選択に迫られる場面があったらとことん自分の頭で考える。そしてその想いをしっかりと自分の言葉で相手に伝える。

そして、その想いが社会を作っていく。お金の流れを生み出していく。

その結果が「良心を持った資本主義」にならなかったとしたら、僕の理想はマイノリティーだったということ。ただそれだけなんだと思います。

tom-w.hatenablog.com